女川町誌 続編
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進本部を設置した東北電力はただちに現地測量を開始するとともに、五月三十一日、宮城県開発公社との間で土地買収委託契約を結んだ。県と女川・牡鹿両町も専門家を招いて集落ごとに共催の講演会を実施するなど、地域住民への啓蒙活動に取り組み、十月下旬から十一月末までの一か月余の間に講演会だけで一〇回を数えた。 東北電力が関係漁協に協力を依頼した海象調査は、昭和四十四年一月十五日に開始された。県開発公社による女川町側地権者との土地買収交渉も、女川町当局の精力的な応援を受けて、この種の交渉としては異例の短期間で三月二十六日、基本協定の調印に漕ぎ付けることができた。さらに五月六日には東北電力女川原子力調査所が開設され調査工事が着手された。 このように、一見極めて順調に進められてきた原発問題であったが、反対の火の手はまず隣接の雄勝町から揚がった。前節で触れたように、県の適地発表とほとんど同時に動き始めた反対漁民の勢いは雄勝町漁協の大勢となり、同町議会に対して原発反対決議の請願となって表面化した。この請願を採択して原発反対を決議した(昭和四十三年六月五日)同町議会はただちに県と東北電力に対して反対の申し入れを行っている。翌四十四年一月六日には、雄勝・女川・牡鹿三町漁協所属の反対派漁民とこれに同調する一部住民が参加して、「女川原子力発電所設置反対三町期成同盟会」(以下、反対三町同盟と略記する)が旗揚げし、これまでくすぶっていた本町漁民の反対運動も一挙に顕在化する。三町反対同盟の会長に雄勝町漁協組合長西島俊一氏が選出されたことからも、少なくとも発足当時にあっては、反対運動の主導権が雄勝町漁協にあったことがうかがわれる。 やがて反対運動は昭和四十四年六月十四日の女川町漁協通常総会における原発立地反対決議へと発展し、五十三年八月二十六日の同漁協臨時総会で漁業権一部喪失が決議されるまで一〇年に及ぶ着工延期の主因となった。 61

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