女川町誌 続編
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以上、わが国原子力発電の開幕までの事情を概観したが、この稿をまとめるに当たっては主として次の著書を参考にした。 『原子力開発三十年史』(企画、原子力委員会、発行、日本原子力文化振興財団) 『原子の火燃ゆ』(著者、木村繁、発行、プレジデント社) 第二節 原発敷地が小屋取に決定するまで 昭和三十三年六月十六日、日・米、日・英間に原子力協定(動力協定)が調印されると、アメリカの売り込み攻勢は一挙に高まった。たまたま、ウィンズケールの黒鉛炉で事故が発生し(三十二年十月)、イギリスが動力協定に第三者損害賠償の免責条項挿入を申し入れてきたこともあって、わが国原子力発電の路線はイギリスからアメリカへと大きく方向を変え始める。火力発電で提携関係にあったことから、東京電力はゼネラル・エレクトリック社(GE社)の沸騰水型、関西電力はウェスティングハウス・エリクトリック社(WH社)の加圧水型を導入し、それが今日まで九電力の軽水炉の沸騰水型、加圧水型の分布を決定づけている。 九電力のうち、原発建設計画の具体化にいち早く取り組み始めたのは関西、東京の二社であった。関西電力は昭和三十七年十一月に第一号炉の敷地を福井県美浜町に決定、東京電力も翌三十八年二月、四十一年度着工、四十五年度運転開始の計画を発表している。特に関西電力の場合は、四十五年八月八日、九電力のトップを切って美浜発電所が 58

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