女川町誌 続編
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先駆をなすものと考えられる。この写本は照源寺二十九世、三宅玄雄師の手を経て現在は石巻市立図書館に所蔵されるが、その解読文が玄雄師の嫡男、太玄師の手で照源叢書第二として刊行されている。 これに安永二年(一七七三)の『風土記御用書かき出だし』(以下『書出』と略称)、最近発見された明治七年(一八七四)の戸籍簿(以下『戸籍簿』と略称)を合わせると、三百年前からほぼ百年ごとの資料がそろうことになった。人口 の変遷をたどるだけでも、藩政時代の本町の一面がかなり鮮明に浮き彫りされるように思う。 他に、人口構成を見ることのできる「当人数御改帳」が横浦の木村家文書の中に散見されるが、共時的に全町をカバーするそろった資料にならないのが惜しまれる。 『書上』は尾浦分を欠き、『書出』は鷲神分を欠くとともに、石浜分の男女別人数を欠く。ただし、『書上』の尾浦分については、石垣宏氏が照源寺叢書の解題の中でこれに触れ、尾浦分は竹浦分に含まれる、とされている。しかし、私は筆写の際のミスと考えるので、その根拠を明らかにしておく。 確かに『書上』の竹浦分には「尾浦在家」の項はあるが、「竹浦在家」の項がない。また、竹浦分の土地範囲を示す「東西拾壱丁拾弐間、南北六丁」は、周辺各浜のそれと比べると、尾浦を含むにはいかにも無理がある。さらに、『書上』、『書出』記載人口の一覧(表1)を作成してみると、仮に『書上』では尾浦が竹浦に含まれるとして、その合計一七〇人は『書出』の竹浦、尾浦の合計三〇二人に比べていかにも少なすぎる。八〇㌫に近い増加率はよほどの歴史的事件がない限り考えられない。ところが、そうしたことの形跡はどこにもないのである。もしあったとしても、周辺部の各浜にもその影響が現れる 542

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