女川町誌 続編
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られる。その後逐次対潜艦艇を付属させ、兵舎を新設し、私の在任中に金華山電探基地、新庁舎が完成した。 私は着任直後、西郷さんを思わせる堂々とした体軀の町長さん(注・須田金太郎町長)の来訪を受けた。その際私は町を挙げての協力に感謝するとともに、女川町の防火防災に協力を惜しまないこと、漁船保護に専念することなどを述べ、歓談のひとときを過ごしたことを懐かしく思い出す。 二月十一日の観兵式には、司令富沢大佐の観閲を受けた後、私は全部隊を率いて町内を行進したが、この行進はラッパの勇壮な響きとともに町民の絶賛を博したとの報告を主計長から受けた時の喜びも忘れられない。 女川防備隊は一、一〇〇名より成り、準士官以上三十二名のうち現役は私と主計長の二名に過ぎなかった。対潜部隊、哨戒部隊の指揮は現役が必要とするため私が任命されたのであった。 司令富沢大佐は、現役時代には中央で教育局員として活躍された海軍では知名の士であり、その識見は高く評価されていた。不幸にして体調をくずして退役されたが、応召により女川防備隊司令として着任されたのであった。外見は常人と変りなかったが、健康はすぐれず、毎週私が司令をお宅に訪ねて指示を仰ぐという日々が続いた。幸い時局はまだせっぱ詰まった状況ではなかったので、司令の迅速適確な判断に従い、私は不安なく軍務を果たすことができた。第二国民兵の新兵の後期教育も一人の落伍者を出すことなく終えることができた。 漁連の仲介で、漁船から怪しい船の出没に関するニュースの提供を受けることもできた。私はこれらの漁船への燃料の配給を心掛け、大謀網の見張り船にも特配を行うように努めた。その縁で漁民の方々との親交も深まり、新鮮な海の幸が防備隊員の食膳を賑わすことも度々で、今も懐かしく心によみがえってくる。 昭和十九年六月二十五日、横須賀海軍工廠機雷実験部員として転任命令を受け、私は女川を去ることになる。 536

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