女川町誌 続編
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ころで、海に面する此の新鮮さに対比して、町そのものゝぼろ・・の様な古さと小さゝとには驚かされる。この古さは珍しい。魅力は此の新古均等の無いところにある。 ほんの些細ささいな宿場のやうな此町に着きは着いたが、どうも宿屋が目につかない。目につくのは個人経営的小規模な軒並の鰹節かつおふし工場と古風な「御料理」式の家々と三等郵便局風の局とだけだ。ともかく探すと海岸の埋立地に女川ホテルといふ新築の小さな建物が見える。窓からのぞく。水色の絹のアッパッパといふものを着た大年増が朝の掃除をしてゐる。休ませてもらふ。家の前の原っぱでは小屋がけで老爺ろうやが荷たり船を造ってゐる。到る処の空地に製造中の鰹節が乾してあり、生節の蒸せる臭で息がつまりさうだ。 漁船にねらひ・・・をつけてゐた私はまづ魚市場に出かけてコンクリイトの上の鰹の山と、鮪しび、メバチの大行列との間を通りぬけ、そこに舫もやってゐる発動機漁船の幾艘かに飛入りの見習乗船を申込む。漁夫等の一瞥べつによって私は徹頭徹尾落第する。金比羅丸も山どり丸もてんで・・・私を相手にしない。「旦那なに言ってござる」でお仕舞だ。さんざんな目にあって成程と思った。こんなインテリが道楽半分に漁夫の足手纒まとひになり、無責任な所謂いはゆる経験をする事に何の意味があらう。生活は必至の生活にのみ意味がある。見学や経験や真似や同感はむしろ当事者への冒瀆ぼうとくだ。文芸家の所謂体験的文章の何と中途半端な馬鹿げたものであるかを思出した。ゾラは運転手を描く為に機関車に乗ったといふ。用がすめば下りてしまふ。その書いた世界はたゞ外面生活と符牒との綴り合せだ。当事者から見ればそらぞらしい素人のお話に過ぎない。私は自分の好奇心を恥ぢた。人間はたゞ已やみ難い自分の世界からのみ進むべきだ。文芸は作家各自の持場からのみ真実の声となる。真である為には此道より外に針路が無い。岩野泡鳴の一元描写論は此の事実を方法論にまで延長したものと解すべきだ。漁船乗込などといふ事は偶然の機会か、真実に自分が漁夫となる時以外には、やたらに望むべきでない事を知った此のインテリは海岸に積んである薪の山の間に腰かけて烈日に焼かれながら青く澄んだ水とその水を切る船との関係をいつまでも見てゐた。 女川ホテルで噛みでのある様な新らしい鮪のさし身で昼食を喰ってから渡波の砂浜へ行って夕方まで土地の子供等と遊ぶ。 532

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