女川町誌 続編
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第一節 高村光太郎と女川 彫刻家、詩人として高名な高村光太郎が三陸の旅に発ったのは、昭和六年(一九三一)八月九日のことである。 父光雲が、一二歳の時、黄金山神社の宮司の養子にされかけたという因縁もあって、光太郎の三陸への思いは幼時から浅くはなかったようだ。けれども、多忙に加え、「平常の貯へが無く、また借金を決してしない」光太郎には、自分の望む自由な旅の機会はなかなか訪れなかった。たまたま、時事新報社が紀行文の掲載を約束してくれることになり、実現したのがこの旅である。智恵子発病の兆候が顕著になるのは、この旅中のことである。 時事新報夕刊に載ったスケッチ入りの「三陸廻り」は、「石巻」に始まり「宮古行」まで、一〇回で完結する。その第五、第六回目が、「女川港」「女川の一夜」である。 光太郎の来町は、女川振興会(『女川町誌』参照)解散の翌年に当たり、まだ「ぼろ・・の様な古さと小さゝ」の港町ではあったが、海岸近くには新興の気があふれていたという。本町の維新期ともいうべき時期に、高名の詩人を迎え、その筆によって当時のわが町の姿を知ることができるのは、望外の幸運というものであろう。 中央紙の夕刊への掲載ということで、当時の町民の目に触れることもなく、「三陸廻り」の存在は長く町民に気付かれなかった。貝広氏(鷲神西二)が『高村光太郎全集』(筑摩書房刊)所収の「三陸廻り」を目にし、周知活動を始めたのが昭和六十年である。氏は有志と語らって高村光太郎文学碑建立実行委員会(菊田栄治委員長)を設立、募金運動を精力的に展開した。貝氏は女川一中時代、国語教師我妻信男氏から、光太郎の作品に女川の名を詠み込んだ詩、530

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