女川町誌 続編
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〈新資料〉 昭和四十年代後半に、女川町御前浜の県道で道路測量中に大量の古銭が発見された。山ぎわの高さ二〇㍍の岩盤のくぼみに埋もれていたという。現在、東北歴史資料館で整理中であるが、約一万枚はありそうである。古銭を銭名と初鋳年代で分類してみると、日本のものは奈良時代の神じん功こう開かい宝ほうと平安時代の富ふ寿じゅ神宝しんぽうがそれぞれ一枚ずつあるだけで、他の総てが中国銭である。中国銭の内容は前漢のものが二種類、新が一種類、唐が二種類、北宋が二九種類、南宋が一九種類、金が一種類、元が一種類であるが、枚数でみれば北宋銭が大部分を占めるであろう。もっとも新しいものは元代の至大通宝(初鋳一三一〇年)であるので、この古銭が埋蔵された年代は鎌倉時代末か南北朝時代初めと考えられる。 こうした埋蔵銭は県内で一五か所で発見され、備蓄あるいは一時保管のために埋蔵されたものと考えられているが具体的なことはわからない。しかし、中世における貨幣流通を示す資料として重要である。 おわりに 本文の記述は、「宮城県の貝塚」東北歴史資料館(一九八九)の編集方法を利用した。遺跡の位置図は、平島遺跡(二万五千分の一)を除いて女川町役場発行の「女川町全図その一、その二」(一万分の一)を一部施設名を改め使用し、遺跡の範囲を破線で、貝塚をスクリーンで表現した。図、写真の注のないものは筆者が作成・撮影をおこなった。十二神遺跡、尾田峰貝塚、内山遺跡、荒井田貝塚の図は、現在確認できない遺物等もあり、三宅宗議氏が昭和三十四年に作成した原図をそのまま使用させていただいた。遺跡の現地調査と記述は、女川町教育委員会の遺跡台帳(カード)、重要遺跡分布調査(文化財パトロール)等の成果と三宅宗議氏の情報提供・ご助言により実施することができた。また、掲載した多くの資料は、照源寺・三宅太玄氏所有のもので快く提供を受けることができ感謝に堪えない。さらに、〈新資料〉では、藤沼邦彦、神宮寺千恵両氏の手をわずらわせた。その他にこの章をまとめるに際し、左記の方々・機関に資料提供、ご助言、ご協力をいただいた。記して感謝の意を表したい。 中村光一、楠木政助、加藤道男、山田晃弘、村田晃一、阿部恵、平塚英一、阿部清也、山下信雄、女川町文化財保護委員、女川町教育委員会、石巻文化センター、東北歴史資料館、宮城県文化財保護課 528

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