女川町誌 続編
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で師の門を叩く者が絶えなかった。 昭和六 十 年 庫裡新築落成 昭和六十二年 地蔵尊建立、第二次墓地整理 昭和六十三年 第三次墓地整理 (注)現住職龍雄師は公民館長として、生涯教育の叫ばれ始め たころの本町社会教育の推進に力を尽くされた。現在も 保護司として更生活動に活躍している。 ❍龍王山 妙照寺 昭和三十六年 三十三観音像建立 昭和四十四年 本堂(九〇坪)新築 昭和四十九年 開山一世錬秀上人入寂 (注)現住職錬成師は昭和三十三年、バンコクで開催された世 界仏教徒会議に日本代表団の一員として出席、引き続い てビルマ各地の戦跡を訪ね、戦没者の慰霊、供養を行っ た。帰国後、著書『ビルマの墓標』刊行。 ❍護天山 保福寺 (注)『女川町誌』の保福寺についての記載には誤りがある旨、 現住職哲義師より指摘があったので、本尊、由緒等につ いて訂正を行う。 一、本尊 阿弥陀如来(木造乾漆金塗金座像) 高さ一尺四寸 寛文十三癸丑年山城国洛陽(京都)仏師山路四郎重直作 脇侍 観世音菩薩・勢至菩薩 高さ九寸三分 安永四年作 一、由緒 天台寺附行流寺、虚無僧寺、修験寺として開創。大永 二年二月十三日、照源寺二世天産舜易和尚、曹洞宗に改創(照 源寺の記録による。) 文久二年正月十四日の大火により、文書が焼失し、改創以 前については不詳であるが、境内に弘安二年の古碑があるこ と、安永二年当時の尾浦肝入鈴木喜八郎が一四代目であるこ と、開創当初、寺は護天山上に在ったと伝えられることなど から、開創は今より八百年以前と推定される。 寺は後に尾浦沢に移り、明治元年現在地に移った。 (注)文久二年の大火後の再建に当たり、交通事情により 出島・寺間の檀家は離檀して慶応元年永清庵に合流。 一、沿革 昭和四十年 第二十世絶学文雄和尚入寂 昭和五十年 本堂新築(RCコンクリート、平屋一〇七・ 八坪) 昭和五十三年 交通安全祈願観世音菩薩建立 427

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