女川町誌 続編
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⑶ 昭和四十六年(一九七一)~昭和五十年(一九七五) 昭和四十六年に入ると、沈滞気分の漂う中で、わが国の経済界は日米貿易摩擦の激化、ニクソン政権のドル防衛策による為替変動相場制への移行といった相次ぐ難問に直面し、厳しい対処を迫られる変動期を迎えた。この年、深刻化する公害問題を処理するため環境庁が新設され、その初代長官に当宮城第二区選出の大石武一代議士が就任した。 昭和四十七年、沖縄祖国復帰の実現を花道に佐藤内閣が退陣し、日本列島改造論を旗じるしに掲げた田中内閣が誕生する。この年、中国側からの要請で訪中した田中首相の手で日中の国交回復が調印され、戦後処理の大きな課題のひとつが解決された。しかし、この外交上の輝かしい成果の反面、日本列島改造論により、これを先取りした土地の買い占めが起こり、全国的な地価の異常高騰によるインフレ傾向が発生するなどのマイナス面が目立った。 翌昭和四十八年は第一次石油ショックで暮れる。企業の便乗値上げは〝狂乱物価〟を引き起こし、都会では群集心理に駆られた人々がトイレットペーパーや洗剤の買いあさりに目の色を変えて狂奔するという一幕もあった。燃油価格の暴騰で手痛い打撃を受けた遠洋漁業界は、やがて漁業専管海域二〇〇海里(五十二年以降)、第二次石油ショック(五十四年)と重なる追い打ちを受けて、現在もなお尾を引く構造的不況の時代へと追い込まれることになる。 昭和四十九年末には金脈問題で田中内閣は崩壊したが、世界的不況は五十年になっても続き、天皇在位半世紀を迎えて計画された数々の記念行事もそのあおりを受けて延期を余儀なくされた。また、祖国復帰を記念して開催された沖縄海洋博も予想をはるかに下回る入場者数で盛り上がりに欠けた。パリで開かれた第一回主要先進国首脳会議(サミット)は、この世界的不況の克服を第一の目的とするものであった。 こうした世界経済の大変動期の中で、女川町の原発誘致は反対派の活発な活動にもかかわらず、徐々に建設の方向11

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