女川町誌 続編
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努力はもちろんであるが、町民活力のあかしとして自負するに足るものである。 昭和三十七年から三十九年にかけて、桐ヶ崎・大沢・針浜・高白の各地区に相次いで簡易水道の設置が進められ、また、江島へき地出張診療所、第二保育所、第三保育所の開設、公民館、女川第一中学校体育館の建設など、医療・衛生、福祉、教育関係の施設が着々と充実された。 昭和三十八年には、厳しい町財政の中で、石巻高等学校女川分校(定時制課程)の新校地の造成と校舎の新築を町の事業として敢行し、独立の全日制県立高校昇格への道を開いた。この年はまた、着工以来一二年を要した県道女川・雄勝線が開通、定期バスの運行も開始されて、天候によっては陸の孤島になりかねなかった北浦の人々に一大福音をもたらした。 国のチリ地震津波対策事業は、当初、防潮壁方式によるものと査定されていた。しかし、本町は、港湾としての将来性を考え、防波堤方式を主張し、東北大学に実験委託した調査報告書を根拠に粘り強い陳情を続け、ついにその主張を国に認めさせることができた。これは本町の死命を制する重大問題であっただけに、一〇期に及んだ木村町制の中でも最も大きな功績のひとつとして銘記されなければならないことである。その防波堤の起工が昭和三十九年四月に行われた。 その他、女川電報電話局の開局とそれに伴う電話のダイヤル式への移行(三十七年)、江島への海底電線敷設と送電の開始、県道石巻・女川線舗装の完了、宮城バス町内線運行開始(以上、四十年)など、交通・通信の分野でも近代化が進んだ。 この六年間、昭和三十五年の不漁期はあったものの、カツオ・マグロの遠洋漁業はまだ〝良き時代〟にあったし、 4

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