女川町誌 続編
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れ三年の入院を余儀なくされる。 片肺切除の大手術で一命を拾った闘病生活中に、将来を模索する氏の脳裏をよぎったのは、航海の途次、瀬戸の海で目にした島々の見事な段々畑であった。また新しい夢が生まれ、生へのたくましい意欲がよみがえった。「その夢も入院中に結ばれた妻の理解と、励ましがなかったら、日の目を見ずに終わったかもしれない」と、氏は述懐する。 全快した政雄氏は仙台の養種園、県の農学寮を訪ね助言を求めた。大方は地の利に恵まれないとして疑問視するなかで、夫妻の熱意に動かされた養種園の宇和野技師は現地に足を運び、親身の相談に乗ってくれた。傾斜地の雑木林を切り開いた段々畑に、リンゴ、桃、ブドウを、一部にはイチゴ、バラ、チューリップを植え、観光農園として開園を迎えたのは昭和三十年のことであった。翌年、温室が完成し、サボテン・シクラメンなどの鉢物が加わると、マスコミの注目も集まり、入園者も年ごとに増えていった。 盛時には、本町の年間観光客数約一四万人に対して、四月から九月までの半年で、かっぱ農場の入園者は四万人にのぼった。この数字は、われわれが今直面する町活性化の一方策である観光において、個人の先見と創意がいかに大きな力になるかを雄弁に物語る。 こうして、前途に洋々の希望を抱かせたスタートであったが、チリ地震津波と翌昭和三十六年の豪雨による現国道の崖崩れという相次ぐ天災が致命的な打撃となり、農場は多額の借財を抱えて閉園に追い込まれる。農場再建の志を胸に、氏は再び海に戻った。 昭和五十年、借金の返済を終えて、かっぱ農場は再建の道を歩み始めた。もぎ取りの容易な矮わい性種二五〇〇本という県内有数規模のリンゴ園には、延長三〇〇㍍の管理作業用モノレールが設置され、消毒用配管は述べ二㌖に及ぶ。すでに入園者も着々と増加の傾向を示し、往時の盛況をしのぐ勢いにある。長男夫妻もこの事実を継ぐ 292

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