女川町誌 続編
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早くからその実現を大目標として機をうかがってはいたが、戦後の財政窮乏期に県の公共事業としての早期着工は客観的にみて極めて難しいことであった。そこで、悲願実現への糸口をつけるため、失業対策事業にこれを組み込み、昭和二十六年から現在の国道三九八号線に当たる町道を、二十九年からは女川・大原線を拡幅する工事に着手した。失業対策事業としての性格上、つるはしとモッコを使用しての人力に頼る工事であったから、四年間でわずか七一五㍍という女川・大原線での工事の進行が示すように、工事自体の成果は初めから期待されていなかった。 町民の熱意に支えられた町当局の努力が実り、やがて、両線とも県の道路改良事業として工事が引き継がれ、昭和三十八年六月、まず女川・雄勝線が開通し、同年十一月、宮城バスによる定期バスの運行が開始された。この県道は三十九年六月、公募により「リアス・ブルーライン」の愛称を得て親しまれ、五十七年七月、石巻・湯沢線(三九八号線)として国道に昇格、近く路線の短縮を図る大改修工事も予定され、観光の面でもその効果が期待されている。 また、県道とは名ばかりの山道で、土地の人々から「犬の県道」の悪名で呼ばれた女川・大原線は、県の事業としての改良工事着手はかなり遅れたものの、女川原子力発電所建設計画の具体化に伴い、東北電力が工事費を負担することで工事は急速に進み、コンクリート舗装まで一挙に行われることになる。これに先立つ昭和四十年、町は自衛隊に要請して、県道に接続する町道野々浜・塚浜間の改修を自衛隊の部外工事として完了させていた。女川・塚浜間にバスの定期路線が開かれたのは四十八年十一月のことである。 沿岸道路の整備は、必然的に離島航路を除く沿岸航路の廃止につながる。これらの航路が果たした歴史的役割を考えると、女川・雄勝間に就航した女川丸、金華丸、黄金丸、亀岡丸、女川・船越間の大和丸、女川・塚浜間の交喜丸の名は長く町民の記憶にとどめたいものである。 275

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