女川町誌 続編
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メン工場は、石巻圏でも珍しく、町内外の小・中学校にとって得難い社会科の見学対象とされた。従業員も一〇〇〇人を超え、その八割は女川町民であった。固定資産税による町財政への寄与も大きかったが、町内最大の働き場所として町の経済全般に対する貢献は忘れてはなるまい。本町の人口が最大を記録した時期がこの期間と重なるのも偶然ではなかった。このころ、女川一中では従業員子弟の家庭訪問を、父兄の要望を入れて工場内の講堂で昼の休憩時に集団で行うという異例の措置をとった一時期さえあった。 しかし、経済の急成長に伴う生活の向上は、国民の食品への嗜好しこうを多様化し、それに対応する業界の激しい新商品開発競争を招来した。目まぐるしく変化する諸情勢に対応する企業戦略の中で、女川工場はやがて縮小への道をたどり始める。どんな事情があったにしろ、昭和四十三年のラーメン工場の撤退は早過ぎたし、町民の受けたショックも大きかった。以後、従業員も逐次減らし、六十二年現在で約一四〇人が焼きちくわ、冷凍食品の生産を続けている。広大な敷地の半分以上も町内大手の水産加工会社に貸与し、盛時の面影はない。 二 製氷・貯氷と冷凍 広く漁船を誘致して漁港としての発展を図るうえで、製氷・貯氷及び冷凍施設の拡充・強化は、港湾施設の整備と並んで欠くことのできない条件である。しかし、そのための施設は巨額の投資を必要とするため、年を追って増大する需要に十分の対応ができず、漁船誘致上のネックとなっていた。 製氷・貯氷は昭和二十八年ごろから昭和五十年代初期までは木下冷凍(東洋冷凍の前身)の製氷日産九〇㌧を最高に、共和冷蔵(株)女川遠洋漁業協同組合の三企業体で合計の製氷能力が日産一四〇㌧、貯氷能力が一日一五〇〇㌧247

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