女川町誌 続編
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かのぼるものしか見ることができなかった。幸い、このことについて日本鰹節協会が五年間にわたる調査を続けており、近くその成果の刊行が予定されているということである。詳細はその刊行に期待して、ここでは大正二年、農商務省発行の『日本水産製品誌』によってカツオ節製造略史と、大正初期のころの製法の一例「伊豆国田子村の製法」を示し、これと対比して昭和四十年代に本町で行われた製法を略述することにする。なお、本町の製法については平塚喜助氏(元女川水産加工組合長)、阿部進氏(旭が丘一区長)、鈴木伊勢松氏(鈴伊商店)の指導助言を受けた。 ※カツオ節製造略史 江戸時代の初め慶長・元和のころ、紀伊・志摩・薩摩の各地で従来のカツオ節製法を改良しようと試みる者があった。やがて延宝二年(一六七四)紀州熊野浦の漁師甚太郎という者が宇佐浦において改良カツオ節を製したところ、それまでになく硬い節ができ大評判になった。これを耳にした播磨屋左之助なる者がその製法を伝習し、有志を集めていっそうの改良に励んだ。やがて、土佐藩の勧奨を受けることになって、ついには土佐節の名で全国に知られるようになった。 正徳のころ(一七一〇年代)には大坂と江戸にカツオ節問屋が見られるようになり、製法も次第に太平洋沿岸を北上して三陸地方にまで及んだ。しかし、「カツオの故郷は南にあるから、カツオ節は回遊の初期に当たる九州や四国で製したものが良質で、北に行くほど品質は落ちる」と頭から決めつける俗説が流布し、このため磐城・三陸の製品は中央の市場では長い間相手にされなかった。 ようやく明治二十三年の第三回内国勧業博覧会で、伊豆製が土佐製を抜き、茨城製が安房製を抜いて上位の賞を得たのを契機に、三陸節の評価も次第に高まり、中央の市場でも取り扱われるようになった。 240

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