女川町誌 続編
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⑶ カ キ 日本のカキ養殖の歴史は十四世紀に広島で始まったと言い伝えられているが、確かな文献はない。宮城県でも、江戸時代の初期に内海庄左衛門(延宝四年=一六七六=没)という人が松島の野々島で、天然の稚貝を拾い集め、適当な海面に散布して成育を図り、その採取期日を定めたのが始まりといわれる。しかし、これも言い伝えであって、根拠となる古文書が残っているわけではない。 宮城県で本格的なカキの養殖試験が始まるのは、明治三十二年、塩釜に県水産試験場が設立されてからのことといえる。以後、県水試の指導を受けながら、付近の漁民もいろいろと工夫を重ね、従来の方式より進んだ簀す立だて棒刺棚を作り出した。これに対し、郡が棚ヒビ施設への補助金を出すなどして奨励したので、松島湾のカキ養殖は年々隆盛に向かった。 明治四十四年、カナダのバンクーバーで水産会社を経営していた宮城新昌氏らは、日本からカキを輸入して養殖を始めようと計画し、大正二年、宮城氏が帰国して各地のカキ養殖地を視察して回った。その結果、宮城県産を最適と判断し、万石浦にカキ養殖場を設立、県水産試験場及び地元事業家の協力を得て、宮城県のカキがアメリカに輸出される端緒をつくった。大正八年、万石浦で試験を続けていた宮城氏は、輸出カキの貝殻に多数の稚貝が付着してアメリカに渡り、親ガキは斃死したにもかかわらず、稚貝が死なずに育ったことにヒントを得て、本町大沢の阿部善治氏と協力して採苗試験を行った。 大正十二年には神奈川県金沢湾において、水産講習所の妹尾秀実、堀重蔵の両氏がカキの垂下養殖法を開発して、大正の末から昭和二年にかけて宮城県にも普及し、わが国のカキ養殖が飛躍的に発展する素地となった。この方式は 222

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