女川町誌 続編
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に見るように、単なる人口減少にとどまらず、集落そのものの老齢化を思わせる人口構成を示すようになる。 沿岸漁業で使用される一〇㌧以下の漁船の主体であったサッパにも、昭和四十年代に入ると船外機が取り付けられるようになり、やがて軽量かつ強度の優れた新素材の開発で成型船が普及し、サッパ自体が次第に姿を消していく。 小型漁船の動力も焼き玉エンジンからディーゼル・エンジンへと切り替えられ、労働の省力化とスピード・アップが進んだ。 大きな砂浜がなく、養殖漁業による海面占有率の高い本町では地引き網はほとんど行われておらず、定置網も事業体が漁協やその支部であって、町内漁家の単独経営によるものは現在わずか一体のみである。 三 栽培漁業 栽培漁業については『女川町誌』の第三編第一章「女川町の漁業」の章末に、カキ・アワビ・ノリの養殖及びアワビの蓄養について極めて簡略な記述があるだけなので、沿岸漁業の活性化に栽培漁業が担う役割を考え、本書では特に紙幅を割き、その開発の歴史にさかのぼって記述することにした。 なお、本項の記述にあたっては、本町栽培漁業の進展に直接指導をいただくことの多かった、元気仙沼水産試験場場長酒井誠一理学博士から貴重な資料の提供と懇切な指導をいただいたことを記し、深甚の謝意を表したい。 さて、採捕漁業にも栽培漁業的考え方は古くから見られる。資源の枯渇こかつを防ぐ対策として自然発生的に生まれた開口制度(口開け)がそれである。昭和四十年代の初期まで、開口は小・中学校生徒の欠席が多く、授業が成立しないことさえあって、沿岸の辺地では教育上の問題として騒がれたこともあった。 215

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