女川町誌
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来て建立したのであるから、文化四年より十七年後であることを考えると、三十三観音建立の時は又々目的をたてゝ行脚したのであるまいか。 四、遺物中書幅は別として衣類持物は甚しく簡素の物である。 唯塩沢家に遺つた硯だけは台附の大物である。以て上人の平常と人格とが察しられる。 五、逝去されたのは塩沢家であるが、利作塩沢無涯の計らいと各地の帰依者の希望により、次の所に遺骨は埋葬されたようである。 ㈠ 女川町の補陀閣 ㈡ 福島の常光寺 ㈢ 北沢又川寒三十三観音のある地蔵堂境内 ㈣ 差塩松崎家山林地内自画像の下 ㈤ 亀岡文珠堂境内石仏像下 六、要するに上人は曹洞宗の僧侶ではあるが、他の宗の山門にも修業を積み、殊に真言宗の祈禱をはげみ、無論妻子はなく無欲無念の境涯を愛し俗気が起きれば断食参禅して澄み切つた精神に立ちかえり、ひたすら仏道の弘通と庶民の病苦災禍を救うために一身一代をつかつた近代稀に見る名僧である。 補 陀 閣 の 額(女川) 独国和尚墓碑の表(女川) 女川浜の補陀閣(女川) 921 921

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