女川町誌
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る。老杉欝蒼たる境内の路傍に、山木利兵衛氏を中心として当時の帰依者達が右図の如き立派な石像を、文政十年に建立した事実より考えれば、大和尚はこの地に於て仏道の真密を悟ると共に、晩年まで終始来住して布教に努めて居られたことが明かである。それ故に米沢の岩窟が修業の地であると女川の言い伝えにも信達一統志にもあるのである。 山木家は当地方に於ける帰依者の中心で、同時に当地方布教の拠点でもあつた家柄である。従つて他方と同様一筆大字竜の軸を始めとして軸物十数本、仏説文珠無量無辺経写本一巻、破れかけた古い頭陀袋・香炉・托鉢用の鈴などが大切に家宝として保存され、一家揃つて大和尚信仰の念誠に深いもようである。而して差塩の郷土誌には宮城の僧とあるが、こゝでは大和尚の出身地を伝えていない。修業した岩窟は文珠山八合目位の所にあるが、山が急傾斜で而かもツゲの密林を漕ぎ分けることが甚しく困難で、三名の人々に手を引き尻を押されなどして四十分余もかゝった。容易に究めることが出来ない所である。畳なら五六枚も敷ける広さで最も静寂な境地、而かも不動様の持つてるような大小二振の劔が供えられ、神仙の気が追るように感じられた。 七、結び 以上女川・南沢又・北沢又・差塩・福島旧市内・亀岡等の遺蹟を巡つて独国上人は次のような方であることがわかつた。 一、建立した碑石等を見ると曹洞宗と書いてあるが、修業した寺の中に横山の大徳寺、亀岡文珠堂の大聖寺、信夫山の薬王寺、閼伽井岳の寺等は曹洞宗ではない。川寒の地蔵堂や金福寺も真言宗である。 二、断食修業したことは各地でわかるが、詩文等から見ると心に俗気が生じて来るとすぐ参禅断食して心を澄ますことに努力し、そして布教されたらしい。 三、布教の拠点ともいうべき家は女川では補陀閣、南沢又では光徳寺、北沢又は不明、福島駅では塩沢家、 差塩では松崎家、亀岡では山木家、斯様な家々を拠点として行脚と布教に一生を捧げた人である。差塩の岩阿の前には文化四年三月、芸州高田郡吉田村、源吉、雲州仁多郡中井野村、乙松、当山中興曹洞独国という妙典一字石一行三礼塔が建立されてあることから考えると、上人はこの供養塔を建立する以前に関西を行脚して二人の弟子、否帰依者を差塩に伴い来てこの碑を建てたのではあるまいか。而して文政七年に三十三観音を建立したがこれは関西三十三観音を行脚してその土砂を頂いて 920 独国和尚の石像(亀岡) 920

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