女川町誌
988/1094

の霊山でありますが上人様が参籠されると麓を流れる水が白く濁つたそうです、それを見ると麓の人々はお姿を拜がもうと登山したそうだが、或時参禅のお姿を拜しながら何かがやがや騒ぎたて、お気にさわるような事があつたらしい、すると忽ち暴風吹きあれ、草木もちぎれ飛び赤子の泣声もする凄壮の気がみなぎつて耐えきれなくなり、衣の袖にすがつておわびをしたら「一寸待つて居れ」と申され何か祈禱をされると平穏に戻つたという物語もあるということである。塩沢家は家督の忠氏が昭和三十一年に逝去せられ三十二年に七十三才のシクという老婦人と娘夫妻が居られ、 近い親戚としてはこの家から嫁がれた折橋セイ(七十三)夫人が集つてくれ、いろいろ話してもらつた。遺物としては ㈠板倉侯抱画家の上人肖像の軸物 ㈡大硯と大粒の珠数 ㈢一筆竜字の書幅等で文書類は忠氏が先年能代銀行に赴任の際持参し同地の大火で焼失したという。塩沢家の過去帳を見るに代々の間に、特に五台遍照独国大和尚文政十三年五月廿一日随心利作と書き入れてある。無涯の墓は到岸寺に照誉寿円大徳天保十年五十九才とある。それより常光寺門前に行つたら都会風の立派な等身大の次のよな碑が建てられ掃除も行届いていた。しかし大都会であるから差塩のように部落挙げて今に信仰が遺つてるわけではなく、塩沢家中心の人々の信仰を見得るだけのように察しられた。 こゝに塩沢無涯敬書の差塩にある碑文の中から数項の研究をのせるここする。 一、詩文が十五首ある中に、詠独国降誕の題下に「宝暦午年午日筵」とある。これによつて上人は宝暦十二年に生れ文政十 三年示寂の時は六十八才であつたことがわかる。 二、碑文の末尾に「余師に教を受くること二十有八年、今玆に五月廿一日弊蘆に於て示寂せらる、又拙筆が師の志をついで遺文を石に勒し深く宿縁を感ず」とある。これによつて二十八年溯ぼつた享和二年上人四十才の時が川原に於ける会見の年であることがわかる。 追て塩沢家は上杉氏の家臣で、上杉氏が福島に移つた時越後の塩沢から移つたのである。現住所は福島市宮町一七、折橋家は三河北町三一、親族相談の結果上人様の形見を実家の後裔木村町長さんに御贈呈申上げますと言つて雄勝石製の大硯(長さ八寸巾四寸厚さ一寸五分)重量一貫目位の物を依頼されて送達した。 尚上人様の遺蹟が関西に三か所あると伝え聞いて居たが、十数年前常光寺に何か書類がそこから送られて来たそうですと両夫人は話していた。(後日の研究にゆずる) 独国和尚の墓碑(福島市) 918

元のページ  ../index.html#988

このブックを見る