女川町誌
984/1094

ている。更に三十三観音は平の近傍と福島の近傍と女川のこの三十三観音との三か所に建立したということが言われている。 そこで庵寺の前の三碑を種々の角度から研究し独国の甥松太郎(吉右エ門)が十三才の時、叔父独国の寓居横山の大徳寺に行つて泊つて来たということを聞えたので、大徳寺を訪ねて調査して見たが、何等遺物らしいものはなかつたが、独国と共に三碑を建立した玉泉が、その頃大徳 寺の住職となり、 霊雲玉泉大和尚として過去帳に載つてることがわかつた。また庵寺の中の独国和尚墓碑と本尊観音様の碑、第三十三番の碑、浦陀閣の木額、三十三観音碑、中学校登口の金比羅大権現碑、浦陀閣境内の二つの五穀豊饒天下泰平祈願碑、その他周辺の碑石を調査した。然るに第二十三番観音碑に、信夫郡沢又村鉄五郎の名を発見した。そこで昭和三十年十月福島県に出張の途次南 沢又部落の民家・小学校・寺院を尋ね廻つて光徳寺小池正孝氏にあい、この寺に独国が寓居したこと、その門前に鉄五郎の家があつたこと雨乞のことなどがわかり、福島県教育委員会にゆき信達一 統志で北沢又川か寒さぶの碑等を読み、且つ実査することが出来た。この時平市まで調査したが収獲なく、木村町長知人高野満治郎氏の研究により、 福島県平市より約九里北方山中に左塩さいその遺跡あることが明かと なり、同三十二年九月この地を訪ねて幾多貴重な資料を得、碑文の筆者塩沢無涯を福島市内に探して見当らず、帰町後同市役所に数度照会した結果、吏員中にゆかりの女子職員があり、その家に数度文通し、同年十二月五日、六日と実査して多くの資料を得、これをすでに米沢市に照会したが要領を得なかつた。しかし偶然にもこの照会を置賜郡露藤の安部名平次氏が聞き、余の尋ねて居る遺跡が亀岡文珠堂なることを明示せられ、三十三年九月同地訪問して一切が解決したわけである。之れが筆者の大和尚研究経路のあらましである。尚不明な点は独国幼時の弟子入りした寺と、北沢又に誰か当時の篤志な帰依者がなかつ 914 三十三観音の全景(女川) 三十三観音の一番観音(女川)

元のページ  ../index.html#984

このブックを見る