女川町誌
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たではあるまいか。それが弘化になると第二回の火災にかゝつたらしく羽黒大権現奥院という碑を建てゝ尾浦部落との中間に下げて社殿を建て更にその後第三回目の山火事で類焼し、現在の地に羽黒神社として奉祀されて居るのである。弘化の火事即ち第二回の火災があつた時に建てた石は、今尚羽黒大権現奥院と書いて遺つているが、その敷地は十数坪で強風が当らないように山を切り崩して造つている。約三尺位低くく拜殿やその他の敷地らしく想像されるような地形の所がある。安永の書出しには四尺五寸造りとあるけれどもこれは火災後の仮宮と思われる。何故というに現在見られる敷地の址からすると左様な小規模の社殿とは思われないし、応永までの祭典の大規模な点から考えても相当な社殿であつたことゝ思われるのである。それ位であるから梁川から鐘吹師を呼んで大梵鐘を鋳造したものと考えられる。従つてこの梵鐘を鋳造した時代は安永前の各浜々共同祭典で、旺盛な時代であつたと考えられるのである。三、尾浦の伝説(尾浦)尾浦には古い伝説がある。其は神亀年中(七一五)天竺国、千葉大王之皇子が空船に乗つて当国に漂流、其船が当浜へ流れ寄り此浦より上陸した。其節王浦と申したが何時の頃から大浦と唱い、又尾浦と申す様になつた。(風土記御用書出)所が大槻磐水が五十六の時に金華山に遊んだ事がある。(文化九年九月)「夢遊金華山之記」の中に(仙台叢書三)「一日友人志村弘強のぬし訪ひ来りて、一つのめづらかなる咄ありしは、牡鹿遠島の内なるおまへ浜という所に、天平の昔(七二九)国王敬福がすまゐせしと言ふ古跡ありと其の土俗の言ひ伝へし事あり、こは此迄いまだききも及ばぬ事なり。此頃この国司金華山より黄金掘出し住ひせし処ほど近かりし故にやあらん」とある。此の二つの話が地方に伝えられて未だに生きている。第一の話は安永の書き上げによつて語り伝えられている。尾浦には千葉と言う名字が多く、此の千葉は大浜(王浜)に移り住んで、後も千葉を唱えたという。昔は尾浦で初漁の時には大浜の千葉家に奉つたものである。第二の話は神亀より程遠くない天平の事で、年代は違わないが磐水が聞えたと言うのは御前浜と言う所で金華山に金か産したと言う事と王敬福を合せ考えたと見える。これも確たる証はない、若し来たとしたら其は巡視のつもりで一時来たのかも知れぬ。史書に残つている王敬福は衆知の通り、従五位上陸奥守百済人王敬福で、天平二十年(七四九)二月二十二日聖武天皇が大仏を造つた時、小田郡の産出した黄金九百両を献じたので、朝廷では非常に喜こんで幣を奉じ、幾内七道の神祗に告げ、王敬福の位を従三位に進め、産金に従つた三十余人に対しても夫々賞を与えられ、天皇東大寺に臨み左大臣橘諸兄に勅して、仏前に「三宝の奴たる朕敢て廬舎那仏の宝前に申す、開闢以来我国未だ嘗て黄金を産するを聞かず。故を以て之を他に須つこと久し。然るに陸奥守百済王敬福其郡内小田郡に黄金を産するを以て之を献ずと奏せり。朕此奏を聞き驚喜措く能はず、以為へらく実に是廬舎那仏の朕が世に恩恵を垂れ、此国家の供福を降すものなりと因つて、玆に百官有志を率ゐ恐惶奉謝するもの如898

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