女川町誌
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今尾浦に伝わつて居る民謡はこの光景をよくうたつている。尾浦御殿のサイカチノキは花が咲けども実がならぬそれから後も御殿の鐘が無心に毎日明け六つと暮れ六つには必ず鳴る。それは浜々の信仰者達の厚い信仰に応えて「大漁であれ」「幸福であれ」とでもいうように。しかし彼の女には淋しき思出と涙とをそそる鐘ではなかつたろうか。口さがなきは田舎のならい御殿峠の悲劇がすぐ村中に伝えられ、いろいろな茶飲み話し、井戸端会議の話題になつた。しかし彼の女は心だてのやさしい娘であるから誰も嘲り笑うたねには扱わず誰からも同情の目で迎えられ話された。そして誰がうたうともなく、彼の女の心情を察して次のように甚句として歌つたのである。尾浦御殿の鐘つけば伊達の梁川思い出すこの事があつて何百年梁川の鐘師も彼の女もこの世を去り、世間の人々にも忘れられるようになり、物語りを秘めて居た鐘も大東亜戦争に出陣して不帰の客となるなど、時代は移つて行つても僅かな碑ながらも今に御殿の趾が認められ、又気品あり魅力ある民謡として広く民間に普及愛唱されるということは、淋しくも美しき物語と共にやさしき郷土女川人の誇りでもある二、羽黒の宮(尾浦御殿)の由来(尾浦)元久二年の千葉家の古文書(別掲)に「…桐が崎を限りに網の瀬まつり幣の切はぎの事左衛門大輔に渡候、若し牡鹿の羽黒の宮建立候はゞ、遷宮の事左衛門太夫よむべく候ふ品の事は、人しめ(不明)山鳥、かすけ(かすげの馬のこと)太刀一振、三貫三百三十三文に定候、二百文乃硯水をいたされべく候云々」によつて見ると、羽黒の宮は近く落成するらしく遷宮も間近に迫つた時の辞令のような文書であることは十分読みとれると思う。さすれば尾浦の羽黒の宮は少くもこの年即ち昭和三十三年より数えて七百五十三年前に創建されたものであるということが言える。桐が崎より以東は勿論女川町に羽黒神社は過去にもなかつたからである。而して遷宮の意義については女川町地区開拓の結論の項にも述べてある通り、他から遷して来たのであるか、出羽から分霊して遷したのであるか明確ではないが、羽黒の宮建立という丈から考えると創建の意味にした方がよいようである。それから二百年後の応永時代の文書「おながわ宮入の事」を見るに、建立の時と同様の供物で、千葉家全管轄神社中第一位になつている。女川地区では白山と羽黒と二社だけ記載されているのを見ると、 今の尾浦小学校学区には未だ神社は他になく、石浜辺から御前方面まで氏子になつて居たものと考えられる。応永の文書に御マエの羽黒の宮ということも書いてあるがこれを裏づける文であると思う。このころは斯様に山の麓の各部落で祭る位であるからさぞ盛大に賑々しく祭典も行われたことであろうが、安永の風土記によつて見ると神職は真野村本山派観寿院になつて建物も規模があまり大きくもない。これは第一回の火災後らしい。その頃は各部落皆鎮守社があるのを以つて見ると羽黒の宮の祭りは応永頃までの様に賑わしくはなかつ897

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