女川町誌
952/1094

二組、小松家十人二組になつている。旧十二月二十六七日になると、正月のお松迎えというものをする。各組が組毎に揃つて山に入り適当と思われる松が見当ると、一人一個宛持参のお供え餅を三回削つて、その松の根元にあげ恭しく礼拜してその松を切るのである。木の枝ぶりや姿の揃つたもの二本揃えて部落の近所まで持ち帰り、然るべき所に各組毎に安置しておく。愈年越の日の朝になると大本家に集つて酒と餅の御馳走にあずかり五人組なれば次の四軒を順次馳走を受けて廻るが、二軒目から餅は略すようになつて大体酒ばかり頂くようになる。それが終ると昔なら新しいわらじを履いたが、今はゴム底足袋などを履き鉈・ヒッキリ・松かけ繩等を持ち山稼ぎ仕度をして、かねて安置して置いたお松を迎えて来ると各自分の家に帰り、お粗末扱にならぬようにと薪など重ねて居る側にサンダワラを置き、そのサンダワラの上にお松の切口を置き、幹や枝はその薪におつかけて立てるようにし、神酒と肴をお供えして山姿のままで恭しく拜礼をする。これでお松迎えは終り、その姿ですぐヒシャク二本と若水桶とワラと持つて海に行き、先ずヒシャクと若水桶を清めて水を汲み、次にワラにヒシャクを以て海水をかけて清める。そして家に帰ると(斯様な新年の行事をする者を年男という)その年男は風呂をわかし入浴して、下帯も新しくかえ神棚へ七五三を張り門松を立てて七五三を張り礼服を着用して夕飯を神前に供え後家族と一緒に食事をする。それが終ると室内の七五三飾りをなし、元朝参りの準備などすると大体十一時頃になる。やがて準備して居た一升枡に米三分の一位入れ更に切餅二つ入れ庭に置いて臼をかぶせる。こうなれば針仕事は一切出来ないことになる。その臼には七五三繩を廻わし更に繩を以つてこの臼に杵をくくりつける。これは鬼が来たらこの杵でつぶすという意味であるそうだ。臼の上には若水桶とヒシャクと若水草履を上げて明朝にそなえる。午前零時になると元日である。すぐ若水草履をはき、弊とシメ繩を持ち他人におくれないようにと井戸に行つて若水をツルベで三回に汲む。これを以つて元朝の御飯も炊けば雑煮餅の仕度にも用いる。食前に家に備えてある掛図類全部を座敷に飾り、神前と同様供物をあげかくて神前を拜す時に家族一同神前と同様に拜すのである。正月三か日焚く薪は年越の日に庭に入れて置く。四日には庭に伏せてある臼をあけて本年の早魃であるか雨年であるかを判断する。それは枡の中の切餅を静に取り上げて米が沢山着いて居たら雨年と判断し、少し着いて居たらひでりを予知するということである。この枡の米は四日カユにして家族一同食べる。年男は前夜米・野菜・醬油等を大本家にやつておき、四日の朝になると皆その大本家に集つて餅を搗き氏神に供え、料理を整えて会食する。この会食の際は調理した物は悉く一物も残さず食わねばならぬことになつている。この四日の行事をお福デンと称する。言海に福田のことを次のように書いている。仏経の語。仏、法、僧、三宝の徳を敬うを敬田といい、君父の恩に報ゆるを恩田といい、貧者を憐むを悲田という、之を三種の福田といい、この無上の功徳は無上の福徳を生ずという。言海のこの解釈から考えると尾浦では正月四日に仏教の精神に則とり、882

元のページ  ../index.html#952

このブックを見る