女川町誌
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(一、二八八)、元亨(一、三二一)、元徳(一、三二九)、元弘(一、三五一)などの碑石が今に現存しているのを以て観れば、この頃既に相当開拓が進んでいたものと見られる。その後本島の南部の小字寺間は、出島部落から分れたもので、当時の肝入須田儀兵衛(須田金太郎の祖)が中御門天皇の享保八年(一、七二三)に、寺間新屋敷二十戸の切開きを藩主吉村に願出た。同十一年十一月二十日許可を得て開拓の歩を進めた。当時出島と寺間の両部落で二十六戸あつたという。藩政時代この寺間の地は出島の端はし郷ごうとなつていた。以来連綿として今日に至つたもので、この地の植木氏は桃生郡立浜から移住したものと伝えられている。二、出島の地理⑴出島の位置本島は女川湾口の北岸に横たわる離島で、西は出島水道を距てて尾浦半島と相対し、東は渺茫たる太平洋に面し、南は大原の寄磯崎と近く呼応して女川湾を擁している。更に遠くは霊島金華山を望み、南東には江島の群島を控え、北は桃生郡十五浜の桑の浜に向合つている。⑵出島の地勢本島は南北に稍々長く走る海蝕台地(潮流または海波などによつて陸地が侵蝕されて出来た海蝕棚の隆起した台地)で平地と称すべき所は殆どなく、自然の分水は東西に向い、所々に小規模の沢谷を形成している。従つて台地性の島山は漁船や航海者の忌む風濤を避けることが出来ないばかりでなく、森林が少いので、海上の陰影が薄いため魚族の寄りつきには適さないといわれている。⑶出島の港湾出島湾出島の地勢は前述の様であるが、この島には出島湾と寺間湾との両湾がある。出島湾は島の北部に位し866

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