女川町誌
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ッパ漁業」と近海雇傭漁業とをいつたり来たりしている浮動労働者である。このような不安定で、不利益な状態は、自然に女川漁夫生活の近代化をはゞむ、近代漁業労働者が不足すれば、何時でも補充出来るし、またいつでも下船させれば元の「サッパ」に帰り得るというような状態に、「サッパ漁夫」の大部分が追い込まれているといつてよいであろう。この状態は近海漁業労働者の年令配分を見れば更に明瞭である。三〇才以下の漁夫が七五名にのぼつている。即ち雇傭労働に入つている漁夫の半分は青壮年漁夫である。残りの半分が三〇才以上六〇才以下の漁夫である。三〇才以上の漁夫の大部分は世帯主あるいは「サッパ」零細漁業経営者である。三〇才未満の漁業労働者は家族労働力で、その多くは次三男の労働力である。かゝる家族労働力の上に、歩合制低賃金の近代資本経営の漁業が成立していて、零細漁家からの労働力の召集と解除とが自由に、そしてたえず行われているのである。第三節江島の流人一、主なる遠流者藩政時代、女川村と御城下仙台との往来のあつたのは、藩公の御巡視か、代官の見廻りの時、そして江島に流入のあつた折のみで、平常は一向に交通ということはなかつた。当時藩の掟を破つた重い罪人は離島である江島に流し、之を管理したのである。今日より考えると江島としては、誠に迷惑至極なことであつたが、またその半面には是等の流人の生活が、江島住民の生活文化に影響したものが少くない。次に是等流人の中、斎藤外記とか栄存法印などはそ853

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