女川町誌
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郎氏と居られたが、木村老人曰くあそこは父喜三郎から相続した土地で私が買求めた土地ではないからその点をわかつて建てゝ下さいと誠にもの固いそして理解あるお言葉を頂いたのである。依つてあの崎を今後喜ヶ崎と呼ぶことゝし、後年観光パンフレットを出版する時は毎回喜ヶ崎と名称を入れたのみならず鳥居に関係者名を彫刻する時にも地主名を書いたのである。さて建立に当つて最も困難したのはセメントを手に入れることであつた。金を出しても買い得る時代でないからである。然るに役場用の配給があつたので、特別お願して必要量を配給してもらい、永久的な基礎工事を施すことが出来た。次に物資が乏しく町民皆忙しく、而かもこの事業に乗り出してくれる人の無い時に於いて、木村寅治郎氏は建設用の長木類から繩まで供給してくれ、手伝までも終日して下されたことは、敷地の提供と共に同志の深く感謝した所である。鳥居の額は計画当時の作で奏任待遇宮司佐々木舜永氏の書である。柱に昭和十八年五月二十八日完捷祈願と彫刻したのは、大東亜戦争のすさまじく南方へ進出している頃で、当時の国民感情と海軍記念日とを選んだものである。敗戦により米軍進駐するや民間人よりこの彫刻を自発的に抹消したならばと諫告を数回受けたがそのまゝにした。尚次の通り彫刻してある。大正十一年計画並石材運賃担当鷲神木村熊吉外有志木下製氷高田平四郎昭和十八年石材料並建立諸費担当〃新田導守浦宿相沢清六外〃熊谷正雄敷地所有者鷲神木村庄五郎昭和十四年国鉄開通して金華山軌道株式会社は解散し、終戦後バスが再開せられ、而かも時代の推移は国民精神が娯楽を求め旅行を好む傾向著しく、二十三四年頃よりこの鳥居が次第に観光客というものを送迎するようになり、昭827

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