女川町誌
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二、明治以後の凶荒明治時代に入つては、藩政時代の様に凶作に見舞われることは少くなつたが、明治二年の気候不順による大凶作を始め、同三十年(大洪水)、三十五年(気候不順)、三十八年(大洪水・冷害)と四回も凶荒に襲われた。しかし明治維新後封建制が打破されて国内相互の米穀等の食糧の移出入はもとより、外米の輸入さえも行われる様になつたので、藩政時代の如く一地方が不作のために甚しく食糧に窮するとか、餓死するまで追い込まれる様なことはなくなつた。特に三十八年の宮城・福島・岩手三県下の大凶歉のあつた際の如きは、遠く全国各地から同情の御見舞の金品が贈られたので、窮乏の裡にも明るく凶作を切抜けることが出来たのである。明治三十八年の凶荒は、この年の六月十二日より颱風が全国を襲い、本県は各河川が氾濫して大洪水となり、稲作等に甚大なる被害を与えた。その上この年の天候はややもすれば変兆を呈して適順でない傾向があつた。殊に夏季土用に入つてからは、連日降雨が続き、稲苗の分蘖が不良で、その他の農作物の発育にも悪い影響を与えたのである。また螟浮塵子等の害虫が諸所に発主して蔓延し、冷稲熱病さえ見た。七月中、石巻測候所の観測によれば、気温は平年より一・八度低く、三十五年の凶作より僅か〇・四度高い程度で、天候は極めて不順であつた。結局、早稲はもとより中・晩稲ともに不良で一反平均収穫高は本県〇・一八〇石、牡鹿郡は〇・三八二石であり、無収穫作付反別は牡鹿郡に於て作付反別一、一一四・七町の中六九三・八町で、女川村は全部が無収穫作付反別(三815

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