女川町誌
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第二章女川地方の凶荒第一節冷害・洪水等の歴史一、藩政時代の凶荒女川町の各部落は海に臨み、漁業を主なる生業としているので、本町住民は凶作というよりも不漁ということが、より厳しく生活に響くのである。しかし米穀は国民の主食品である関係上、冷害凶作ということは農家ばかりの問題ではなく、漁業を生命とする漁村の住民にも共通な生活問題である。東北地方は地理的位置と海流の影響等から、屢々冷害・凶作に見舞われた。特に藩政時代の宝暦・天明・天保などの年間では冷害・洪水などが連年相続いて凶作に襲われ、藩民は塗炭の苦に悩まされたのである。先ず宝暦年間の凶作について顧るに、封内は同三年の秋の洪水から始まり、五年十月の北上川流域、特に牡鹿郡地方は大雨と洪水とが打続いた。更に同六年に於ける領内の飢饉は甚だしく、藩は施米を出して救済するなり、穀類の蓄積を禁ずるなどの方策をとつたが、前年冬以来米価が騰貴したので、餓死する者が道路に満ちたと伝えている。なお同十三年にも夏秋の交に屢々洪水があつて穀類の収穫を減じた。天明年間に入つては同二年の夏封内に水害があつて二十七万二千余石を減収した。翌三年には五月以来封内の気候810

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