女川町誌
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合せる。午後電話にて明日内務省の長久保技師と大槻技師と現場視察に来られるとの報告があつた。漸くして各班の報告を得たのは午後十一時頃であつた。それによれば人畜の被害の大きいのは十五浜村雄勝・荒、大原村鮫ノ浦にして又我々の工事関係では大原村の谷川、大谷川が最大のものらしかつたが、今日の報告だけでは未だ概算を立てる迄に至らなかつた。最初の方針が総括的と言ふことでもあつたし、又それは地方としても精査し得ない様な混乱状態に置かれて在るのだから致し方あるまい。然し兎に角全般的の被害状況を察知し得る材料は出来たのであるかる、明日からいよいよ概算設計及復旧設計を急くべく方針を授け、明日の為英気を養ふことにして別れたが、午後十一時三十分であつた。今迄にない程寒い晩だ。多くの被害者の為に明日は少しでも暖くなつて呉れ。三月四日天候晴昨日に劣らない寒さだ。黎明を衝いて第一、第二、第三班は工区へ第四、第五班は飯野川出張所に集合し、ポールを手にハンドレベルを肩にして各受持地区に向ふ。実際土木屋としての戦争の様なもので。第一・第二・第三班は矢張りトラックによつて連絡を取る事とした。其の点四、五班の方は苦しかつた訳だ。各班の出発に先だつて工区主任より尚本日の調査要項に対しての注意があつた。飯野川出張所に対しては武田技手が工区より出張して同要項を伝へ、尚調査中の連絡に当り、午後十一時迄に飯野川の第四、第五班関係の分を工区へ持ち寄ることにした。午前九時頃大槻技師は、内務省の長久保技師と来区された。大体の此後の方針を打合せ直に自動車にて大原村に向つた。此の時最も有難く思つたのは渡波の万石橋である。あの橋が完成した時、その以前自動車を渡船で運んだ事等忘れてあの地方にはあれたけの橋の必要はないなどと考へることもあつたが、今日初めて其の橋の実現による有難味を知つた。万石橋の設計者にしても工事監督者にしても架橋当時の色々な失敗の苦杯を甞めた事などを考え合せて、感慨無量なものがあつたであろう。次に嬉しかつたのは道路の良い事であつた。金華山道路は今日の如き事の為にではなかつたが、カーブが他に類のない程多く且つ勾配も急であるから、万一の場合を慮り相当完全に修繕して置いたのが此の場合役に立つ様になつた。此の事から考へると管下全体の道路面を早く完全にしたいと思つた。小積よより修路夫に案内させ、大谷川へ越える。大谷川から鮫ノ浦迄十七、八丁、先年度の残金にて工事中の海岸道路は海嘯の為数ヶ所破壊されて交通さえも出来ない。仕方がなく、海岸を通る波打際に寄せてる流材を見る時、被害が如何に大きかつたかを想像するに充分であつた。鮫ノ浦に着いたとき、大小十箇ばかりの棺桶が焼香香の中にけむつているのを見て全く暗然たらざるを得なかつた。鮫ノ浦より大谷川へ通り、其れより谷川へ向つた。大谷川、谷川の海岸堤防は全潰で相当被害も大きい。大谷川・谷川の海岸堤防は殆んど砂にて築造せる為に、斯る災害を受けたものらしく、此の結果から考へ、少くとも復旧工事には砂質土砂は使800

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