女川町誌
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明治二十九年六月十五日午後七時半頃起つた海底地震によつて「三陸沿岸」は午後八時十分頃から八時三十分頃迄に大津波が襲来し、死者が二万千九百五十三人、傷者四千三百九十八人、流失家屋が一万三百七十棟、内宮城県の死者が三千四百五十二人、傷者千二百四十一人、流失家屋九百八十五戸、石巻地方は無難であつたが、牡鹿半島の東側女川方面は被害を受けている。大正四年十一月一日「三陸沖地震」によるもので宮城県志津川湾に小津波があつた。第二節三陸沿岸の大津波一、昭和八年の大津波昭和八年三月三日に三陸海岸並に北海道日高沿岸を襲うた津波は、近年稀なるものであつた。三月三日の未明、午前二時三十二分に地震が起つた。地震は南は近畿地方、北は北海道に至る地域に亘り、人体に感ずる程度のものであつたが、これから約三十分後に、三陸及び北海道日高国の沿岸に津波を伴い、その猛威をたくましくして、堤防を破り、丘を越え、河川をさかのぼつて無数の家屋を流失し、又は倒潰させた。その上多くの人命を奪い傷をつけ、財宝を失わしめ、船舶を流失せしめるなど誠に惨憺たる様相を現出したのである。この被害の及んだ所は北海道・青森・岩手・宮城の一道三県の六十七か町村、三百六十二部落にわたり死者千五百二十九人、流失倒潰家屋七千二百六十三戸を出したのである。この時の地震の震度分布は、大正十二年九月一日の関東大地震に比して規模が広大であつたが、震源地は陸を去る二百八十粁前後で(石巻測候所調査)海中にあつたので794

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