女川町誌
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第四章女川町教育委員会第一節教育委員会一、教育委員会の発足昭和二十年八月十五日、無条件降伏というわが国史上に例のない冷厳な現実に直面して、人心は非常に混乱した。しかしその後間もなくわが国の教育は厳然として立ち上り、寧ろこの敗戦を契機として国民の一人々々が腹の底から民主的で文化的、しかも現実を克服して堅実な国家を再建し、以て世界の平和と人類の福祉とに貢献しようとする一大決意をした。それが日本国憲法に於て中外に宣明すると共に、第九十二回議会において成立した教育基本法を通じて、理想の実現は根本において教育の力にあることを明確に宣言し、更に学校教育法が所謂六・三・三・四の学制(小学校六か年、中学校三か年、高等学校三か年、大学四か年)を定め、特に六・三は義務制とした。この制度は、我が国明治以来の旧教育行政が、所謂官僚的な劃一主義と形式主義であつたのを改め、公正な民意と地方の特殊性とを尊重し、教育の自主性を確信し、かつ教育の運営は原則として地方にゆだねるという根本方針を定めた。この旧来の虚脱消極の状態を脱するようになつたのも、昭和二十一年春米国教育使節団の来日はさることながら、文部省としては大なる決意を以て劃期的な変革を企て、十数回の特別委員会を催して審議に審議を重ね、次の骨子の709

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