女川町誌
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以上の如くにして予算形式も整い、教育費も村の歳出に計上されたが、当時の財政にとつて教育費が五〇%以上の重荷で、而もこの状勢が後年まで長く尾を引いたことは、特に注目すべきものである。その原因の第一は教育の大任を悉く自治体にのみ負わしめたことにある。次に他の一つは本村が島浜多く交通不便なるため小規模の学校が多数散在する自然的地勢に支配されることにある。而して前者については国庫補助一部、県費支弁等屢法律の改正があつて軽減されたけれども、後者については昭和三十四年の文化を以てしても交通機関道路等幾分の解決を見られたと云うに過ぎないことは遺憾である。二、各年度歳入歳出の状況前述の様に村制実施当初の歳出予算額は、一、八八三円四五三厘で、その精算額は一、八五一円三七厘であつた。翌二十三年度の歳出額はそれぞれ一、八八三円四五三厘と一、八五〇円七五四厘で略々同額であつたが、七年後の三十年度には二、六七六円一一三厘、更に十年後の四十年度には八、五八六円〇一二厘(翌年度掛分二、六六四円〇五〇厘)と、当初歳出の約四倍半に増額した。その後大正五年度には一四、四九〇円九七四厘、昭和元年には六二、一九二円八六〇厘、同十年度には一三九、五七六円一〇〇厘、同二十年度には二七七、一四五円八五銭と約百五十倍に膨張した。終戦後は各種制度の変革に伴い、貨幣価値の切替と事業の拡大により、同二十五年度には五〇、五二六、四七七円六四銭、同三十年度には実に当初歳出の約五千三百倍に当る九六、二〇三、一二一円と飛躍的な数字を以て計上する591

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