女川町誌
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掌した。更に市町村内の各区には区長、または区長代理者を置き、市町村長の命を受けて区内に関する一切の事務を処理するなど、市町村治の補助機関として運営して来た。之はわが国自治機構の最低単位とも言うべきもので、住民に直結して上意下達の役割をしたのである。町村の監督機関として、郡には郡長、府県には府県知事があつたが、大正十年四月一日法律を以て郡制を廃止し、同十二年四月之を実施し、大正十五年七月一日に至つて愈々郡役所を廃止した。以来府県の機構を全面的に改造して、直接府県が市町村を監督することになつたが、この改正の結果が再び種々の不便があつたので、越えて昭和十七年七月一日に至り、各地区に地方事務所を設置して町村を指導監督することになつた。本県に於ては県下十一か所(刈田・柴田・伊具・亘理名取・宮城黒川・大崎・遠田・栗原・登米・桃生牡鹿・本吉)に地方事務所が設けられ、当地方は石巻に、桃生・牡鹿地方事務所が置かれ、女川町はその管轄を受けることになつた。昭和十八年六月に市町村制の一部改正があり、その要旨は国の興廃にかゝわる大東亜戦が勃発して一大決戦の段階に入つたので、国家の総力をあげる為に、市町村長にその部内の各種団体に対する指示権を与え、且つ参与員制度を設けて、市町村政運営の円滑を図り、部落会制度を認めて、市町村内各種機能の活動を一元的、綜合的にするの計画の下に強力に遂行する事を目的とした。即ち翼賛政治の樹立にあつたのである。その結果として従来の政党政治・議会政治は、昔の専制政治に逆戻りした形であつた。かくて国家の総力を挙げた大戦も、不幸にして敗北の惨状を目のあたり見るに至り、昭和二十八年八月、天皇は終戦の大詔を煥発して無条件降服を行つた。ここに於て万事休止し、米英仏ソ連合軍により占領政治が行われ、従来の諸法令は殆ど廃止されてしま518

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