女川町誌
527/1094

魚津に端を発し、売薬の町である水橋・滑川へとひろがつた。この「女房一揆」新聞報道をきつかけに、米騒動はたちまち旋風のように日本全国をまきこみ、三か月にわたつて四百六十七か所に火の手が上つた。政府は騒動に対して、まず警官を出動させたが、都市炭鉱の場合はほとんど動かしかたく逆に多くの警察署や派出所がおそわれた。そこで市都市を皮切りに全国六〇か所に軍隊が動員された。たとえば大阪では一万人、広島では五千人、呉では三千人が出動した。このため各地で市街戦がおこり市民に死傷者が続出し、宇部では死者十三名、呉では死者三名を出しそれでも組織と武力を持たぬ米騒動は各地とも数月で鎮圧された。八月十四日に新聞報道が禁止されたことも騒動の終結を早めた原因である。検挙者は数万、起訴されたもの七、七〇八名、死刑を宣告されたものは二名以上あつた。政府は八月十三日三〇〇万円の恩賜金を各府県にわかち、一、〇〇〇万円の国費を米価対策に支出することを発表し、また各府県に指令して資産家の寄付金による米の安売を行わせた。しかし騒動による米価低落の印象を国民が抱くことをおそれ、八月二十八日には安売打切りを指令し、米価調節費も四〇〇万円しか支出しなかつた。そのため米価は年末に再び五〇銭台になつたが、米騒動の結果民衆の実質収入が増加したため騒動は再発しなかつた。この事件は組織的な指導部を持たない大衆の自然発生的暴動であつたが、封建時代の一揆「うちこわし」とはちがつた意義をもつている。すなわち米騒動は独占資本寄生地主階級に対する労働者農民階級の反抗であり、それを小ブルジョア層が支援しており(小都市農村などではその行動が具体的にみられる所が多く、またこの層を代弁する『朝日』などの諸新聞は徹底的に政府を攻撃した)ブルジョア民主主義、革命の要素をはらんでいた。このため寺内正毅459

元のページ  ../index.html#527

このブックを見る