女川町誌
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天明三年十一月十一日代官鈴木喜三郎から陸方大肝入石井庄五郎に宛てた公文の写は、よく暴徒蜂起の遠因近因を知るによい。天明元年(一七八〇)から八年に亘る凶作で、天明三年五十六万石の減収藩は非常な打撃を受けた。それでも江戸に廻米した年は寛政八年より享和・文化・文政を経て天保六年まで三十九か年中文化四・六・七・八年、文政四・五・六・七・九の九ヶ年で、毎年二十万石以上を送つたという。百姓は役人の過酷と不正とに苦しめられ、遂に中瀬河原に大勢集合するに到つた。女川村の漁民は何の為に米価が斯くも変動するかは夢中であつた。天保九戌年七月廿日御巡見様石巻に御出御泊り此節は大がしに付諸人以の外の迷惑にて歌に巡見は神か仏か引臼か上はまわりて下はこになる457

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