女川町誌
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て強制的に供出させた。こゝに買米は貢祖以上の過重負担となり、かえつて農民の生活を極度に圧迫するにいたつた。家中・農民へは倹約令が厳にされると同時に、度々分に応じて手伝或は貸上が命ぜられ、藩の借米借金は益々増加していつた。加うるに天明元年(一、七八〇)から八年に亘る凶作、続いて天保四年(一、八三三)から十四年にかけて天明にまさる大凶作の到来で、仙台藩は徹底的な打撃を受けた。天明三年五十六万石、天保四年七十五万石、同七年九十一万石の減収と言つた様な大飢餓で餓死者も到る所に続出して悲惨を極めた。そうして江戸に廻米した年は寛政八年より享和・文化・文政を経て、天保六年まで三十九か年、この中二十万石以上江戸に廻米した年は文化四・六・七・八年、文政四・五・六・九の八か年である。藩では従つて買米の強制化にともない。米の他領出はもとより供出が終了しない間は村外部への移動をも禁止し、脱石方役人を巡行させ川筋・港津・他領界の要所には密石改めの番所を置いて米の闇取引を取締つたが、割当の過重はいよいよ取締りを厳重ならしめ、百姓は役人の過酷と不正とに苦しめられた。かくして買米制度は初期の御恵み的性格を全く拭去するにいたつた。脱穀方監督官は脱穀方御役人と称し、時と場合とに制限なく各地に出張して米穀の密輸出入を取締つていた。相去・田家・樋・穴山・柳津・追波及び石巻等に御石改所を設けて管理と取締りを行つていた。取締りの役人を横目と称した。脱穀密石の取締りを徹底せしむべく横目並に足軽に命令し、海陸交叉の要地に検査所を設け、或は運送船を監検せしめ、米塩を初め一般商品に至るまで検査を施行したが、恰も昭和戦争前後に流行したる闇取引の如く、密売買の制圧は容易に奏功せず、殊に少数の人員を以ては十分取締りの手が廻り兼ねたようであつた。445

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