女川町誌
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には諸藩の士民が集合して、俄に多量の糧食が需要された時であつた。殊に寛永十三年には幕府が参観交代の制を設けて之を各藩に命令したので、これより益々人口が激増して米の需用量を増した。此時に当つて仙台藩が封土から多く米穀を産したので、この需要に応じ国用の充実を図つたことは、極めて賢明なことであつた。ともあれ江戸に廻送して莫大な利をあげた事は事実であつた。従つて藩は全力を注ぎ、一粒でも多く米を増産する方策を採用したのである。政宗公が創案した政策の一、二を挙げれば、一、種籾の種類は地方により適当の種子を選定した。一、低級農民の保護奨励法ともいうべき「作立夫喰米法」及び「御買上米法」を施行して農民の生産意慾を旺盛ならしめた。「作立夫喰米法」と言うのは、無利子で金を低級農民に貸し付け、買上げ相場は一俵の定価を二倍し一俵(五斗入) 二歩と定め、地元の肝入をして購入を為さしめた。之が為百姓大いに安堵し御仁政なりとて悦服したという。此の制度は政宗時代は御本金が二十万両も別口で支払われたというが、享保・元文の頃には十万両に減じ、宝暦の頃には、すでに御本金の準備皆無になつた。後には大小名達の懐を肥すために役立ち農民は「御買米」と聞いただけでも嫌悪したという。然し政宗公治下の時代にあつては順調に御買上米は毎年行われていた。さて藩政初期及び中頃に、いくばくの米穀を北上川及び阿武隈川を通過して江戸に廻米したかは判然しないが、口碑によれば政宗公時代には二十万石の米を江戸に送つたと伝えられている。二、買米制の隆盛時代443

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