女川町誌
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くる。荘園制はくづれ土地の支配権は武士化した名主の手に移り、封建的な体制が強化されてくる。農民達は灌漑用水や共同作業の関係から地域的にまとまり、互に共同意識をもつて結びつくようになる。つまり政治的に経済的にまとまつた村、郷村制へと発展した。そして用水を確保し、採草・伐木・漁獲をする入会地をもち苛酷な年貢に対する減免要求や反抗をするようになる。これが士一揆といわれるものである。三、藩政時代の農民天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉は葛西大崎一揆を鎮めた伊達政宗に、葛西大崎氏の旧領土をあたえ、こののち封建社会の末期まで仙台藩の領地となつた。庶民達は「士・農・工・商」という厳重な身分制度で支配されることになつた。庶民達は民住地をかえることが許されず、衣食住はすべての点で制限をうけた。農民が庶民の一番上に置かれたのは、この時代の最も重要な産業である農業を生業としていたためであり、彼等を農地にしばりつけ「死なぬように生きぬように」とりたてる年貢によつて、「士」は暮しを立て、幕藩制が維持されていたからである。農民は五人組制によつてその組頭は、農民から出された村役人である各村の検断・肝入に属し、検断や肝入はさらに郡ごとまたは郡内の北方、南方などに分れてそれぞれ大肝入に統べられた。そして大肝入は郡奉行に支配されたのである。この頃の農民で百姓と認められたのは「本百姓」と呼ばれたある程度以上の耕地をもち、独立の経営を営む自作農と、自分の下に「名子」などの貧しい農民を従えた地主農民に限られていた。本百姓は「四公六民」といつた生産高の四割から五割に達する年貢を納めねばならず、納められない場合には家財道具は勿論、名子や家族、自分自身の体さえ売つてその仕末をつけなければならなかつたのである。このように没落する百姓がある一方では、それらの土地を買入れたり、質のかたに取つたりして自分の田畑を増してゆく百姓があらわれるようになつた。しかしこのようなことは412

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