女川町誌
410/1094

港の完成は、取りも直さず魚市場の完成に俟たねばならなかつたのである。この魚問屋は古くは明和年間(一、七六三―七一)頃から、隣邑渡波町にあつた。そしてその取引の程度も勇蔵日記等に明かであるが、女川地方に初めて問屋の出たのは前にも述べた様に大正年間である。即ち大正七年「丸め」といつて大槻礼蔵氏を阿部喜惣右衛門氏が連れて来て着手したのが最初で、次ぎに新問屋(丸上)が大正十一年に、「丸金」が昭和元年に、其から「丸北」というのがあつた。昭和四年五月磯村氏が四十万円の資本を以て、東北水産株式会社を創立して一大魚市場を新設し、以上の四問屋の統一を計り合併買収し、昭和四年十二月二十四日県より開設指令の認可を得た所が、女川町議会の問題となつたのは昭和四年十二月四日である。これが大衆の自覚を促したのである。そこで議会でも魚問屋を町営となすことに議決し、早速県水産課に申込んだが其の時早くも東北水産株式会社が認可済の後であつた。『伺兼意見書』を出して不公平を申し述べた。「唯ダ惜ムラクハ町営トシテ認可不可能ナリセバ、貧弱当町ノ財源ヲ樹立シ得ズ永久ノ遺憾ニ候」とあつたが、一地方一市場と限られた法の上から如何ともなし難かつた。一面昭和五年四月一日には、木村庄五郎氏から町民三十九名を連署し、魚市場問題解決希望者代表として町長及東漁船からさんまの水揚 342

元のページ  ../index.html#410

このブックを見る