女川町誌
391/1094

明治七年には前述の様に鷲神には漁師と名づけるものはなく、女川に平塚卯兵衛という漁師が一軒しか無かつた。以後八十年間に漁港と呼ばれる様になつたのは如何なる原因によるか。初め商業経済の発達するにつれ、漁業者と需要者の間に水産物の消火売捌に案出されたのは水揚問屋制度であるが、石巻魚問屋の創始は明和年間(一、七六四)の事で四分問屋と称し、石巻・渡波・大曲浜にそれぞれ数軒であつた。維新の改革は魚商の封建体制への寄生を払拭したが、それは再びより自由な商人資本として、市場の末発達な転形期を基盤に、甚しい不等価交換を行いつゝ経済実権によつて漁民の支配と収斂とを強行した。漁村における明治原蓄強行の過程はかゝる魚商人によつて代表され漁民層の全般的窮乏化、内部的分化の深刻化と分解への途を進めつゝ同時に魚商の資本蓄積として現われる。その資本は再び強力な緊縛を伴いつゝ、漁民から再び利潤を搾取せんがために投下される。前貸制仕込制の債務奴隷化はかゝる強行的支配方法として全国的に行われた。かくされつゝも漁民は知つてか知らずか如何ともし難い為に、渡波・石巻等の魚問屋に運んだ。⑶捕魚営業願の願出その頃の鰯建網を願出たものの例に、横浦二番地木村善七郎氏をあげる。隣村保証相受連署の上、一村総代として願出ている。補魚営業願として明治十七年より二十一年に至る五か年、同免許御鑑札御下渡成下度として郡長迄差出している。323

元のページ  ../index.html#391

このブックを見る