女川町誌
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明治七年に於ける女川村の戸籍によると、全村戸数四六八戸の中、漁業を生業とした戸数は二八二戸で、全戸数の六〇・二%に当つていた。それが八十年後の昭和二十七年には全戸数二、八七三戸の中、水産関係の業を営む戸数が九八三戸で、水産業の戸数は明治初年の約三倍で、全戸数の三二・〇%を占めている。そして明治七年の戸籍には鷲神や小乗に漁業を営む家は一軒もなく、女川に僅か一軒あつたに過ぎないが、宮ヶ崎や石浜などの浜には三十軒もあつて早くから漁業を仕事としていた。昭和二十七年の調査によれば鷲神に百八軒、小乗に二十一軒、女川に五十五軒、宮ヶ崎に八軒、石浜に五十四軒で、即ち女川の町と普通呼んでいる地域に計二百四十六軒も水産業家があることになつている。何れの場合においても明治初年より沿海漁業は、若干の例外を除けば彼等は一つの共同社会体的存在として、一定の部落的聚落を構成すると共に、その総有的漁場に対し平等の使用収益を原則とする家内生産的労働による入会漁業を営んでいる。そしてこれを統制するに厳格なる「村ぎめ」を協定し、これに基いて漁村生活の全般が運行されているのである。⑴明治六年海上税今明治六年四月宮城県参事宮城時亮宛に納入せし海上税をあげて、当時の漁村生活の有様を知る一助とする。横浦海上税一金拾五銭八厘漁家(一〇)鮭建網税一金拾六銭壱厘八毛〃(一二)大石原同一金拾銭七厘〃(六)飯子浜海上税拾六銭壱厘八毛漁家(一一)野々浜同一金七銭三厘五毛〃(一二)鮭海小引網税壱円五拾銭九厘六毛⑵前貸制仕込制と漁民322

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