女川町誌
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第五節 女川湾沿岸の航路 一、万石浦の航路 女川と渡波との間の交通は、軌道や鉄道などのなかつた時代は、陸路は万石浦の北岸を山際に沿うて開鑿された細い嶮しい道によつて連絡されていた。海路は浦宿から渡波へ万石浦の最短航路によつて結ばれていた。 万石浦の海上の交通は昔も行われていたことであるが、定期航路の営まれたのは、大正七年頃のことで、浦宿の人によつて始められた。当時二隻の発動機船によつて浦宿と渡波との間の乗客を運んだ。一日一隻で百人位の乗客があつたという。運賃は二十銭で鷲神からトテ馬車で浦宿まで来、浦宿から発動機船に乗つて万石浦を真直に乗り切り、渡波で、馬車鉄道に乗り替えて石巻湊の停留所に連絡するというコースであつた。だんだんこの航路が競争となり、四隻の発動機船が現われ、これが大正十年頃まで続いたが、一方の営業者は競争に破れて廃業した。 大正八年九月帝国軍艦が戦利品であつたドイツの潜水艦三隻を引き連れて女川港に入港し、之を一般の縦覧に供した。この際の如きは石巻方面からの見物人の多くは、この発動機船を利用して女川を訪ねた。当時営業者は一昼夜に六百円程の収入があつたと伝えている。 その後大正十二年四月、金華山軌道が石巻―渡波から、女川に通ずる様になつてからは、この航路も終に閉じてしまつたのである。 二、各島浜の順航路 291

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