女川町誌
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しの間をわけてすゝんでいつたと、また、夜は木の枝をとつて柱を立て、茅で屋根をふいたごく簡単な庵をつくつて野宿する。足柄山のふもとに野宿をして、あけ方から山ごえをした時には、山の中のおそろしいことはたとえようもないと記されている。こんな苦しい旅を続けて上総の国(千葉県)から京都まで、今ならば十時間で行く処をおよそ三月を費している。まして京都を遠くはなれた街道の果てに当る「みちのくの国」(陸奥国)の当地方などはどんなであつたろうか想像さえ出来ない。 その後当地方の交通が、統治者の計画又は住民の自発的計画のもとに組織的に施工されたのは、平泉の藤原時代を初めとし、葛西時代に及んで歴代領主、各地分散の家人・邑主などによつて、それぞれ必要を満たすだけの工事が行われたものと思われる。 二、藩盛時代の交通制度 藩祖政宗公が仙台地方を領有して以来、藩政を積極的方針のもとに土木制度を確立し、特に川村孫兵衛重吉の如き、当時の最新技術者を登用して劃期的な水利土木や道路開発を行つた結果、仙台藩の陸上及び水上の交通は一段と整備したのである。 またこの頃幕府は武家諸法度を制定し、その中に於て道路橋梁の修築、駅馬・駅船の整備などの制を定め、万治年間には道中奉行を置いて宿駅の取締りに当らせた。更に元禄の頃には駅馬の定数不足を来す場合は、近郷から人馬を徴発することとした。之を助郷(すけごう)と称し、助郷を二種に分ち、一里、二里の諸村に課するものを定助郷じようすけごうといい、五里以上十里以内の諸村に課するものを助郷といつた。 石巻地方の宿駅は石巻を始め、矢本・小野・鹿又・広淵・渡波などであつた。そして駅にはそれぞれ検断を置いて249

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