女川町誌
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院に陳情したのである。当時東京市はタクシー既になく、省線電車以外は殆ど徒歩によらねばならぬ交通状態であつたが、須田町長は脚部神経痛にて疲労しやすく五百米位歩いては汗を拭きつゝ脚を休める有様で、昼食も持参の握飯のみ氏の休養唯一の酒すら一滴も飲み得る所もなく、海軍省陳情の際の如きは係官が中央気象台より帰るを廊下に待たされること四時間半、その間茶一杯椅子一脚給与さるゝでもなく、廓下にある古い一脚の不用のテーブルに倚りかゝることが出事たのみである。これも空襲警戒の発令屢々ある際で、軍部の多忙なる点から止むを得ないことゝ、不満の心も起さなかつた。この時代は軍部が最も強力でその下の官僚も強く代議士の力などは全然借りることなく、すべて当局に直接低頭平身実情を訴えるのみであつた。在京八日間のこの困難と熱烈とを極めたる陳情運動が功を奏してか、誠に細々とした工事ではあつたが、女川港の修築工事は終戦を迎えるまでどうやら命脈をつなぎ、終戦後は引続き本格的工事になり得たことは有り難いことである。左記は石浜の商港修築工事に配給せられた年度別セメント量で、よく実情を物語つている。尚二十年は配給が全然なかつたけれども、残量を使用し且つセメントを多く消費せざる方面の工事をして、ともかく女川港湾修築工事は継続せられたのである。223

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