女川町誌
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風俗・交通・共有財産・基本財産・秣場・水利土功・経済状態・通学区域・区長設置・役場の位置等を調査せしめ、且つ各村落の意見を聴取し、慎重審議の上之が実施に当つた。その結果牡鹿郡は石巻町・渡波町・稲井村・蛇田村・荻浜村・女川村・大原村・鮎川村の二町六箇村の構成となり、その後多少の変動はあつたが、かくして最近の市町村合併施行に及んだのである。女川町は明治二十一年に女川浜外二十か浜より、沢田村を除いて女川村を確定し、村政を実施したのは翌二十二年五月一日である。その後大正十五年四月一日に至り町制を施行した。その他は行政篇に於て詳述することとする。第五節女川町地名の由来女川(おながわ)藩政時代に於ける女川組二十浜の中心地は、現在女川町役場や女川駅のある女川浜の地であつた。そして葛西時代よりこの地に居住し、藩政時代の初期から文政時代に亘り、女川組二十浜の大肝入を勤めた丹野家が代々定住した土地であり、また古社白山神社が鎮座した所である。この女川の地名由来につき、次の様に伝えている。女川町西方背後にある黒森(四〇〇米)の麓にあたる奥地に安野平(あのたいら)というところがある。ここから流れ出る渓流を女川と呼んでいる。往昔、安倍貞任の軍勢が隣村稲井の館により源氏方の軍と戦つた時、一族の婦女子を安全地帯であつた安野平に避難させた。当時定めし悲哀な物語を生んだことであろう、ここから流れ落ちる小川を女川と呼ぶ様になつたという。明治二十二年町村制実施の際、従来の女川組二十浜の各村を合併して女川村と総称した。かく全地域を女川村と呼ぶに至つたのは、恐らく女川浜が藩政時代以来、前述の様に大肝入の居住地であり、また地理的にも地の利を得ていたことであり、更に全地域が大肝入時代の女川組でもあつたので命名されたものと推測される。144

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