女川町誌
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うである。以上で女川地方に日本民族移住の年代は推定されたが、その移住の方法は如何にして行われたかを考えて見ようと思う。抑東北地方の蝦夷征伐は、古くは日本武尊・坂上田村麿の遠征があり、或は百済王敬福が陸奥守となり産金撫民等の事あり、これと前後して牡鹿郡が生れ、牡鹿連の姓を賜わる者などが出来、田村麿の三観音建立(富山、牧山、箆岳)の事があり、降つて藤原時代となり、源頼義・義家の安倍貞任征伐があつて、平泉の藤原時代百年その勢力関東にまで及んだのであるが、頼朝が天下を統一するに及び、之を亡ぼして葛西氏四百年時代の陸奥国となり、豊臣氏の天下統一に至つて葛西氏は亡び、伊達三百年の仙台藩時代となつたのである。日本民族の陸奥国移住は以上のような討伐のあつた時は、論功行賞によりその首長が多くの領土を与えられ、その部下も亦夫々土地を与えられて土着し、旧領土の民も多数移住して来たろうということは十分考えられることである。又撫民拓殖の風を伝聞いて他領から移住したもの、落ち延びて来た者、行商布教等に来て土着した者等が東奥移住の大勢ではあるまいか。女川地方も恐らくこの大勢の一つであろうと思われる。但し女川地方は城下町でもなく中央平野部でもないから大移住の行われたことはなく、ポツリ〱と移住し漸次蝦夷を駆逐したものと思われる。大浜の千葉古文書にある元久年代は、今より七百五十年前で頼朝死後ではあるが、東北地方は葛西氏の勢力下であり、針浜の古碑建治の頃はそれより約七十年、北条氏が実権を握つてる頃で、東北は依然葛西氏の勢力下である。斬様な事実から見ると、千葉古文書や古碑でもこの年代が一番古いものであるから、女川地方の移住もこの時代から行われたものかと言うに筆者はそれより以前であると考える。なぜかというにこの地方は山間であり、海浜であるから、文化発達のテンポはおそい。従つて神社信仰が瀬祭のように生業とピッタリ結びつくまで或は神社建立にまで進むには相当の経過年数があつたことと思う。仏教にしても供養を行い碑を建てるまでには五年や十年の信仰、居住ではないと思う。一方歴史上に書かれている事実として西暦七三五年に牡鹿郡が陸奥国に加えられ、七五三年牡鹿連をしかのむらざという姓を賜つた者が二十四人あつて王化の民が認められ、七四〇年代には仙台に国分寺が建ち、百済王敬福が陸奥守となり、拓殖撫民に力を注いだ頃であるから、仙台周辺は既に日本民族の勢力下にあつたことは勿論であるが、牡鹿郡にも日本民族がポツ〱はい132

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