女川町誌
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かを察知していた人物の様に思われる。また極めて機智に富んだ知恵者でもあつた。仙台の郷土史家鈴木省三氏が、「政宗、玉造郡岩出山を治城となしたれども不便言うべからず。此岩出山城は徳川家康が自ら地を相し築いて以て城となし、政宗に与えられたものなればいわれなく治城を換うべからず。故に江府への上下師旅の出入等不便少からざれば、左の三か所の一か所築城の允許を請うの時、宮城郡青葉崎・榴ヶ岡・牡鹿郡石巻の三候補地を列記して指示を仰ぎたるに、幕府以為らく、政宗の機智端睨す可らず、其意石巻に在れども特に第三位に置き険要ならずと思わしめ、ここに允許したるなり。政宗、幕府のため内兜を見透かされ、止むを得ず青葉崎に築き、ここの地名千代を仙台と名付けたるなり」。と述べている。この説は藩政時代の書「東奥老士夜話」にも伝えている。石巻が仙台藩の城下町になつていたならば、わが郷土女川町は今日如何なる港市に変化していたことであろうか。然るに仙台から離れた牡鹿半島方面は、遠島として江島始め綱地・田代などの離島や偏僻な浜は、流刑の場所となつて来たのである。三、仙台藩の職制藩政時代、仙台藩の中央及び地方は、大体次の職制表の様な組織を以て統治されて来た。即ち首班奉行の下に文武一般に関する行政担任の奉行があつて重務を統轄し、七人の若年寄によつて庶政が監督され、また財用方取切奉行の下に五人の出入司があつて、奉行以下の諸役を監督して財政経済にあたつた。更に評定役は司法を掌り、町奉行は市井の政治に当る一方、訴訟裁判のことを掌り、目付は専ら監察のことに当つた。郡奉行は郡政や国産のことに携わる仕組であつた。120

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