女川町誌
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第三節藩政時代の女川一、仙台藩の封土建久元年(一、一九〇)、奥州総奉行葛西清重は、気仙・胆沢・磐井・牡鹿・江刺の五郡の地に封ぜられたので、当時、女川地方はその所領の統治下にあつたのである。葛西氏十七代約四百年の後を承け、天正十九年(一、五九一)以来伊達政宗の所領となり、政宗は天正十九年九月二十三日岩出山に居城を構え、次いで慶長五年十二月二十四日仙台城普請の繩張り式を挙げて築城の工事を起し、三年目の同七年(一、六〇二)に竣工、翌八年八月岩出山より仙台に家臣・町民・寺方等総戸数八千百五十戸、人口五万二千人を移した。かくて六十万石の封土を統治し、領内を四分して南方・北方・中奥及び奥と称し、郡郷を統轄した。牡鹿郡は中奥に属し、地勢が浜海や島嶼の地が多く、また海陸交叉の要地にあたつているので、郡内を二分して陸方・浜方とし、それぞれに大肝入を置いた。更に浜方を三分して狐崎組・十八成組・女川組とし、各組毎の地域に大肝入を設けた。かくて伊達氏十三代二百七十余年の間、各村には肝入・検断などの諸役を置いて管理し、幾多の変遷を経て明治維新の改革に至つたのである。118

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