女川町誌
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建て、本吉冠者高衡をして山神の祭祀のことを司らしめたと伝えている。また隣村稲井村の古刹舎那山長谷寺は、藤原秀衡が源義経の平家征討出陣の際、その武運長久を祈願するために建立した寺と伝え、大悲閣に十一面観世音が安置されている。かように牡鹿・本吉地方には、平泉藤原氏に因む史蹟が少くない。いうまでもなくこの地方は当時藤原氏の支配下にあつた所で、しかも産金と海産物とに恵まれた宝庫であり、また海陸両面の要害の地方であつたのである。8藤原氏の滅亡寿永四年(一、一八五)平氏を西海に亡ぼした源頼朝は、いよいよかねてよりの宿敵たる平泉藤原氏を滅さんと図つた。文治三年(一、一八七)秀衡が卒して泰衡がその跡をつぐや、頼朝は時到れりとばかり泰衡が当時義経をかくまつた罪を鳴らしてこれを圧迫した。泰衡は頼朝の威を恐れて義経を殺した後も、その時期の遅きを責めて遂にこれを討つこととなつた。文治五年七月、頼朝は総軍二十八万四千騎を三軍に分ち、海道方面は千葉常胤・八田知家を大将とし、北陸道は比企能員等を大将として越後より出羽の念珠ヶ関に出でしめ、山道は頼朝自らこれを率い畠山重忠を先鉾として進発した、これに対して泰衡は出羽に若干の兵を出し、専ら伊達郡の大木戸即ち厚樫山に兵を配り、西木戸太郎国衡を大将とし、また刈田郡に城を構え、名取・広瀬の両河に大繩の柵を引き渡し、泰衡自身は国分原の鞭楯即ち今の榴岡に陣した。八月八日両軍厚樫山に於て合戦の火ぶたを切り、平泉軍の佐藤庄司基春等大いに奮戦したが遂に平泉勢の大敗する所となり、泰衡は敗戦の報に接して周章狼狽奥地に退却した。頼朝は進軍して十二日多賀国府に入つた。この時国分寺及び尼寺は悉々兵火にかかつた。泰衡は頼朝の追撃を受けて後退を続け、遂に平泉も保ち難くなつて二十一日自ら平泉館に火を放つて逃亡し、その途中九月三日家臣河田次郎の変心によつて殺された。厚樫108

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