女川町誌
168/1094

つて最も強盛となり、奥六郡を占領して国司に貢納せず、更に漸く南下の形勢を示した。安倍氏の領した奥六郡は胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波、岩手であつた。ここに於て頼義は子義家と共に坂東諸国、陸奥の武士を率いてこれを討つたが、容易に鎮定することが出来ず、出羽仙北の俘因長清原光頼及びその弟武則を説いて官軍に応援せしめ、その力によつて康平五年(一、〇六二)辛うじて安倍氏を亡ぼすことが出来た。これが前九年の役である。桃生郡の飯野川附近の合戦谷とか、牡鹿郡の稲井地方、そして女川浜の女川の上流矢野平に阿部勢の婦女子を避難させたなどと伝えられる史実はこの頃のことである。なお稲井村の真野地方には源義家が安倍貞任と合戦した際の居館真野陳ヶ森館とか、貞任の居館であつたと伝える真野京ヶ森館、そして沼津には義家の館と伝える沼津鶴館の史蹟もある。7平泉藤原氏の勃興その後、清原武則は戦功によつて安倍氏の旧領を賜わり、更に鎮守府将軍に任ぜられた。安倍氏の滅亡後その旧領を国司の所管に移すことが出来ず、俘因長清原氏に委ねざるを得なかつたことは、当時既にかかる豪族の勢力を無視することが出来なかつたのである。更に清原氏が俘因出身で鎮守府将軍に任ぜられたことは、実に空前の事で清原氏はこれによつて自己の武力を合法的ならしめ、且ついよいよその権力を高めることとなつた。ついで勃発した後三年の役に際し、藤原清衡は義家に属して戦功があつたので、この乱の平定後清原氏の旧領を賜わり陸奥押領使に任ぜられ。安倍・清原両氏の後をうけて陸奥国に於ける武家の棟梁となつた。彼もまた陸奥の俘因長の系統をひくものであつた。彼の姓は初め清原武貞の養子として清原姓を名乗つたが、後その荘園を京都の藤原氏に寄進して藤原姓を譲られたといわれている。106

元のページ  ../index.html#168

このブックを見る